扶持人として台所細工の御用を勤めるために拝領した屋敷に住んだが、半分を他家が占めていた。これを取り返すべくしたためた嘆願書である。
私の家は先年から、御台所の細工をおおせかり、怠りなく勤めまして、細工の屋敷は、大土地村に間口十間余り奥行き三十間の一カ所をいただいております。 しかし、この屋敷の半分は、をり仁兵衛という者に与えられ、今は仁兵衛の孫、平助という者が所持しています。(をりは何か不明) 丁戴している残り半分の所に、私の兄の三右衛門を家主として親のときから住まい、三右衛門と私の二人で、怠りなく細工の御用を勤めているわけです。もっとも三右衛門亡き後は倅の九右衛門が前の通 り勤めているのですが、屋敷の半分で両人が勤めるのは狭くて困り、迷惑しています。 仁兵衛のところに与えられた半分については、追って代地をおおせつけられとのお話でしたので、以前、千家利馬様と広瀬佐治右衛門様がご担当の役のとき、代地を下さるようたびたび願い出ましたが、ご返事をいただけないままでした。 その後、長谷大武様がお役につかれた時もしばしばお願いしましたが、ご返事はないままでした。そこで恐縮ながら、またまたお願いするわけです。 屋敷の半分程の場所を、どこなりともいただきたいというのがお願いです。 今まで数年間、座敷は半分でありましたが、細工の御用は前の通りに両人で勤めまいりました。 はばかりながら、この段お許し下さり、何とぞお願いした通りにご下命されますよう、あわれみのご判断を願い上げます。くわしくは口上でも申し上げた通 りです。以上。
担当の役人がしばしば代わるところを見ると、松江藩をのものの台所の細工御用をしていたか、とも思われます。 なお解読文中、「大工地村」は「大土地村」か。また、読み下し文中、をり仁兵衛「と申す者へ仰(おお)せ付(つけ)させられ、唯今にては仁兵衛」孫平助のカッコ内落があります。 系図では署名者源七は二代ですが、彦三郎が扶持人になって屋敷をもらったあとの時期の文書かと考えられます。